研究テーマ:「制度と個人」
 以下は私の現在の研究関心について説明したものです。ゼミ選択の際の 参考にしてください。

人は根拠を常に求 めたがる
 ところで、一般的に人は物事に対して、その根拠(理由)とか原因を常に求めたがる傾向があると言って良いかと思います。人なら誰でも持っているこの傾向 がどこに由来するのかについて説得的な議論を私は寡聞にして知りませんが、おそらく進化論がひとつの有力な説明を与えるでしょう。つまり根拠や原因を追究 しようとすることが生存に有利に働き、そうした性向をもった個体がより生き残りやすくなったため、結果的にそのような個体からなる集団が形成されていった というものではないかと思います。そうなればいわばDNAに焼き込まれた性向というということになりますので、誰もが等しくそのような性向を持っているの も不思議ではありません。いま私がこうした疑問を発すること自体も、やはり根拠とか原因を求めていることになりますね。つまりなぜ根拠を求めるのかという ことの根拠というかその原因を尋ねているのです。ことほど左様に人間は根拠や原因を求める傾向が強いと言えます。

 たとえば、「生活が苦しいのは旦那の稼ぎが悪いからだ」、「学校に遅刻したのは電車が遅れたからだ」、「君は悪い。だって嘘をついたからだ。」・・・な どなど、こうした会話は日常的にいくらでも交わされますね。いずれもある事象や行為の原因とか根拠を特定していますね。一見したところ、いずれの例も自然 な発話のように思われますが、少し考えてみると、それで本当の原因や根拠がわかったことになるのだろうか、という疑問がわいてきます。確かに学校に遅刻し たことの原因が電車の遅れにあったとしても、それは直接的な原因にしかすぎません。電車が遅れたという事象もなんらかの原因に起因しているとしたら、たと えば信号機の故障で遅れたという原因があるとすれば、信号機の故障が真の原因とはいえないでしょうか。しかしすでにお気づきのように、信号機の故障も真の 原因ではありません。というのは信号機を故障させた原因があるからです。たとえばそれが落雷だとしますと、雷が原因ということになるのですが、ではなぜそ の雷はその信号機に落ちたのでしょうか。それにもそれなりの原因があってしかるべきです。また彼が嘘をついたから悪いと批判するとしても、ではなぜ嘘をつ くことが悪いことなのでしょうか。「人に迷惑をかけるからだ」と答えたとしても、ではなぜ人に迷惑をかけることが悪いことなのか、などなどといくらでも遡 行していきます。

ミュンヒハウゼン のトリレンマ
 インドの小話だったの思うのですが、こういう話があります(あまり正確には覚えていませんので悪しからず)。ある村に何でも知っていると言われている古 老がいました。ある日その村の聡明な青年が古老に次のような質問をしました。「いったいわれわれの地球は何に支えられているのでしょうか」と。その古老は 間髪を入れずにこう答えました。「それは簡単なことだ。地球は象の背中に乗っているのだ」と。青年はいったん納得しましたが、少し考えた後さらに次のよう に質問しました。「では、いったい象は何に支えられているのでしょうか。」古老はしばらく考えた後、「象は亀の背中に乗っておる」と答えました。青年は古 老のあまりの博識に舌を巻いたといいます。しかしこの話が意図していることは、「ではその亀は何に支えられているのか」という形の問いかけがいくらでもで きるというメッセージを送ることです。この小話は、先に述べた遅刻の話と構造的にはまったく同じですね。つまり根拠の根拠を追求しだすと無限に遡行してし まい、結論がでないということです。

 すでに言い尽くされたことですが、クヌート・ゲーデルという数学者が証明した「不完全性定理」も同じような構造をもっていますね。私は数学者ではありま せんのでこの定理の内容を正確に説明することはできませんが、それはおよそ次のようなものです。すなわち「ある体系が無矛盾であれば、その体系の無矛盾性 を表明していて、しかもその体系内では証明できないある命題が存在する」というものです。つまりある体系が無矛盾であるということの根拠となる命題は、そ の公理系の外部にあるということになります。ですから、その外部にある命題を取り込んだ新しい体系を作ったとしても、その新しい体系自体の無矛盾性を表明 する命題は、さらにその外部にあるということになります。つまり根拠を求めるという行為にはきりがなく、自らの正しさを自己完結的に証明することはできな いということが数学の世界で証明されたのです。

 そこでこうした無限遡行を回避するにはどうすればよいかということですが、ハンス・アルバートという哲学者によれば、それには二つの選択肢があるといい ます。ひとつはAという事象の根拠がBという事象であるとき、そのBの事象の根拠がめぐりめぐってAという事象になっている、という形の解決。もうひとつ は、根拠の根拠をずっと求めていくという作業を、遡行いずれかの段階で独断的に「エイヤッ!」と打ち切ってしまい、さらに先にある根拠については一切問わ ない、というものです。前者の解決方法が論理的循環を起こしていることは言うまでもないですね。後者は根拠を問うという行為そのものの停止、あるいは決断 的な態度選択ということができると思います。つまり決断的に選択した「究極的」根拠の正当性についてはもはや論じる余地を持たず、無条件にそれを受け入れ るかどうかだけが問われるという格好になります。この無限遡行に陥るか、循環論法に陥るか、決断的判断停止による究極的根拠の選択のいずれかしかありえな い、ということを「ミュンヒハウゼンのトリレンマ」と言います。

根拠らしきもの: 制度
 さて、私は「制度と個人」という テーマで、人間社会における言語や習慣や法律といった諸制度と個々人との原理的関係を研究しているのですが、このような 視点から社会のありようを考えてみますと、非常に興味深いことが見えてきます。実は人間の社会は、無限遡行に陥らないように、循環論法と判断停止を上手く 組み合わせて、根拠らしきものを作り出し、それによって「判断停止」をまがりなりにも根拠づける仕組みをもっているのです。

(1)制度と個人の循環論的支持

 とえば私有財産制度をとりあげてみましょう。人々は私有財産制度が支配している社会では、他人の資産を勝手に処分しません。 私有財産制度は守 られるべきだという期待や内的規範をもっているから、私有財産制度は機能しているのです。しかしでは私有財産制度は守られるべきだという期待や内的規範は どうして形成されたかというと、それは現に私有財産制度が機能しているという圧倒的現実の中で生きているからです。言い換えれば、私有財産制度という社会 的ルールが個人の行動の根拠になり、そうした行動が逆にその制度が機能するための根拠を作り出しているという構図があるのです。

 言葉もそうですね。たとえば「おはよう」という言葉は、朝の挨拶の言葉として交わされます(どうも若者はそうではありませんが・・・)。皆が朝に出会っ たときに「おはよう」と言葉を交わし合う圧倒的現実があるから、ある人は朝に人に出会うと「おはよう」と言う行動習慣を形成し、そうした習慣にしたがう個 々人の行動が逆にその圧倒的現実を作り上げているのです。こうした例は枚挙にいとまがありません。婚姻制度、貨幣制度、政府の権威、などなどおよそ人間集 団の中で作り上げられてきたもろもろの(広い意味での)制度は、こうした構図を持っているように思われます。つまり制度を根拠として個人は行動し、逆にそ うした個人の行動が集合して制度を維持存続させているのです。つまり循環論法的支持関係にあるのです。

(2)制度の根拠についての判断停止
 多くの制度は過去からの伝統とか慣習に立脚しており、しかもその伝統がいつから形成されたかということが指定できないことがほとんどです。財産制度 にしろ婚姻制度にしろ、その制度のそもそもの発端がどこにあるかといいますと、それは茫漠とした過去にあって明確にこれこれをもってこれこれの制度の起源 とするというようなことは言えないのです。たとえば貨幣がいつ頃できたかと言うと、鋳造貨幣については紀元前七世紀頃にリディアで初めて作られたというこ とは分かっていますが、それ以前から石とか貝とか家畜といった形での貨幣が使われており、それらがいつ頃から使われ出しかについては年代を特定することは 困難なのです。人間はいつのほどにか貨幣を使うようになり、そしてその制度が何千年にもわたって存続し、そして今われわれが貨幣を何ら疑問を感じることな く使っているという現実につながっているのです。つまり我々の制度やそのもとでの個々人の行為の始原は、時間軸を無限に遡行したところにあるのです。それ ゆえ、多くの制度はその根拠を問うことを放棄しなければならない。つまり制度の根拠について判断停止をしなければならないのです。その究極が母語という制 度ですね。それらは判断をするための基準であって、それ自体の根拠を問うと思考が成立しない状況に陥ります。制度の根拠は唯一、現に人々がその制度を受け 入れて行動しているという<現実>のみです。
 ところで、法律や企業定款など人為的に設計された制度は、しばしば意識的反省の対象になります。しかし母語や通貨制度などは、それを反省的意識の俎上に 上らせるのにはかなりの努力が必要になってきます。普通は、意識せずにそれに従っているのです。こうした制度が生成されるためには、ある一定のパターンが 繰り返される環境、まさに「日常」、が存在していなくてはなりません。このような日常的世界(「生活世界」と呼んでも良いかも知れません)を人々が物理的 に共有するからこそ、個々人の主観を貫いて共振できる場が準備され、だからこそ異なる人たちの間で判断の一致するような状況が生成されるのです。そしてそ のような状況を、単なる人の群れとしてではなく、「社会」と呼びうるに足る一定の秩序として認識しているのです。こうした問題をさらに突き詰めていけば、 われわれはヴィトゲンシュタインの到達した世界に足を踏み入れて行かざるを得ません。

(3)個人のレベルでの判断停止
 一方、われわれは一定の制度のもとでは、判断停止をして行動しています。たとえば経済学者や詮索好きな人をのぞけば、1万円札をうち眺めて「なぜただの 紙切れに価値があるのだろう」などとは誰も考えませんね。それは現に機能している通貨制度が、われわれの判断停止を支えていてくれるのです。だからわれわ れは迷うことなく1万円札を差し出し、当然のことのように商品を受け取っているのです。交通ルールもそうですね。道路でいちいち左車線を走ろうか右車線を 走ろうかなどと考えながら運転していれば、交通事故が多発して、とても安全で効率的な移動はできません。つまりわれわれの諸制度は、個々人のレベルで判断 停止を可能にする仕掛けとして機能しているのです。

 このように考えると、社会全体として見れば(制度が個人の行為の根拠となり、個人の行為が制度を支えているという意味で)循環論法的でありながら、個々 人のレベルで見れば制度の根拠について判断停止を可能にし、かつそうした制度は少しずつ形を変えながらも、伝統や慣習という形で連綿と続くことで、時間を 無限に遡行したところに、そもそもの根拠の発端らしきものをもっているという構図をもっているのです。まさにわれわれの生きている社会は、無限遡行と循環 論法的支持構造と判断停止というミュンヒハウゼンのトリレンマを見事に超克していると言えます。

 このように我々の社会は絶妙の仕組みで物事の根拠らしきものを社会それ自体の中で生み出しているのですが、その仕組みに問題がないわけではありません。 それは、この時空を超えてなされている人間の営みが、それ全体としてなんらかの根拠に支えられているかというと、地球が何者にも支えられることなく暗黒の 空間に浮かんでいるのと同様、それを外部から支えるものは何もないという事実です。ここに、根拠を自己内生的に作り出しているわれわれの社会の根源的な危 うさがあるのではないかと思います。


根拠らしきもの: 暗黙知
 ところで、制度の他にも人間の思考や行為の根拠となっているものがあります。それを以下ではとりあげますが、まずその前に、なぜミュンヒハウゼンのトリ レンマに陥るかを見ておきましょう。それは、われわれは言語とそれに支えられた論理を意識のレベルで用いていることから来ています。だとしたら、言語や論 理を用いなければ、そのトリレンマはそもそも問題として存在しなくなるのではないかということが類推できます。言語や論理を用いない広い意味での「思考」 は存在するのでしょうか。

 私が研究しているF.A.ハイエクという社会科学者は、個人の意識から社会の制度に至るまで包摂する壮大な社会理論を築いた人です。彼がいくつかの著作 で主張している人間の行為のルール(といっても、彼のいう「ルール」は人間の認知の仕組みまで含みます)を整理すると、次の図に示されたような層構造をな していると私は考えています。



 この図を見て頂くと分かるように、言語や論理を駆使して思考するのは、最上層の設計的ルールという部分になります。伝統や文化といった論理に包摂できな いけれども言語にすることがある程度可能な部分は、その下の「言表可能なルール」に相当します。さらに下の「暗黙的なルール」は意識できる部分と意識でき ない部分に分かれますが、この部分は言語化できないという性質が本質的な特徴になっています。さらにその下には、人類が生物種のレベルで変わらない限り変 えようのないレベルで、これは社会科学の対象からは外れます。(といっても最近はDNAの組み替えが利潤原理に従ってなされる傾向がありますので、早晩、 人間のDNAレベルでの定義も社会的プロセスの結果として変わっていくということになりかねませんが・・・)

 さて、ここで重要なことは、言語や論理を駆使した思考も、結局はこの鏡餅状の構造によって支えられているということです。哲学者が森の小径を散策しなが ら「果たして世界は存在するかどうか」という懐疑論的な思考をしているときでさえ、肉体はせっせと彼の脳に血液を送り、その思考を支えており、また脳の 大部分は、身体のバランスをとりつつ歩行をすることをコントロールし、また無意識のうちに言語文法で彼の思考をコントロールしているのです。「我思うゆえ に我在り」と思うことさえ、それを可能にする条件「思考の外部」がすでになくてはならないのです。こうした思考 の外から思考の構図を眺めてみれば、われわれの意識的で論理的な思考は、いわば氷山の一角であって、その下には膨大な知識や思考のルールが基礎としてある ことが分かります。

 日常生活の中でも、われわれはこの暗黙的なルールがあるために、根拠の根拠を問い進めることなく、判断停止をして具体的行動を選び取ることが可能になっ ています(ギデンズが言う「存在論的安心」を生み出す実践的意識−上図の斜線の部分に位置づけられる−が果たしている役割もその一つである)。好き嫌い、 美醜の感覚、善悪の基準、宗教的信仰、PTSDなどなど、こうしたものの多くは、生まれてからの生活経験の中で、無意識のうちに育ま れ、いわば自己を定義するものとし私たちを染め上げてきたものです。それらをいちいち反省的意識に上らせて、「その根拠や如何」と思索していたので は、食事 も喉を通りません。おおくは判断停止をして、むしろそれに無条件に立脚するからこそ、いまの<私>が錯乱せずに存在しうるのだと思います。

 こうしたレベルの知識を「暗黙知」という言葉で表現したのが、マイケル・ポランニーという人でした。兄は、かの有名なカール・ポランニーです。マイケル は、暗黙知という概念をベースに、自由な社会の存立条件を根底まで考え抜いた人ですが、私が研究しているハイエクにも多大な影響を与えた人でした。ハイエ ク研究は、わが国でもここ20年前ぐらいから非常に活発になってきていますが、最近になって、マイケル・ポランニーとの比較研究も為されるようになってき ました。私の研究テーマは、ハイエクの社会理論の研究ですが、その行為論的基礎としてマイケル・ポランニーにも関心をもっています。
 
 いろいろ書き連ねましたが、問題意識だけはあっても、実際には研究ははかどっていません。多岐亡羊というか、「日暮れて道遠し」的状況にあります。しか し知的好奇心にのみ惹かれて、いましばらくは、こうした世界を楽しもうと思っています。